冨樫 耕平
中2で日本を離れて得たもの④:人種差別と空腹
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中学2年生(14歳)のときに、親元を離れ、ニュージーランドへ留学しました。
そのときの経験が、今、私が子ども達のちからになりたいと思う原動力になっています。
留学中の経験について、何度かに分けて書いていきます。#中2で日本を離れて得たもの
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ニュージーランドに到着後、暴行事件や不思議なホストファザーの行動を経験した私は、
「現実世界の厳しさ」を意識するようになりました:
ニュージーランドには、アジア人や
ニュージーランドの原住民であるマオリ族の人達を嫌う、
白人至上主義者達がいます。
このような人達・集団は、ニュージーランドでは、
「ブラックパワー」や「ボウガン」等と呼ばれ、
一般的に、全身黒ずくめの服装をしており、黒い上着とズボンを履いています。
ナチの「ハーケンクロイツ」をシンボルとしていて、
坊主頭にしているボウガン達もいます。
私を殴った人も、このような格好をしていました
(あいつもほぼ間違えなく、ボウガンでした)。
私が殴られる様子を望遠鏡でただ見ていて、
笑ながら二階から降りて来たホストファザーも、
もしかすると、あまり外国人を好きではなかったのかもしれません
(確認のしようがありませんが、私は当時のホストファザーとの
他の経験も踏まえて、そう感じています)。
私は、世の中には、このような残酷なことをする人達がいるという「現実」を
ニュージーランド到着後、わずか一か月のうちに学び、心に刻みました。
このような体験は、後に私の命を守る、必要な経験だったのかもしれません。
私と兄は、語学学校で一か月過ごした後、
タラデール(Taradale)という小さな町にある
ハイスクール(日本でいう中学校・高校)に入学しました。

出典:https://www.yottecott.co.nz/junior/Junior_sh/taradale.htm
ハイスクール入学前に、私達は学校の近くのホームスティに移りました。
このときも、兄と私は別々のホームスティにお世話になりました。
ここから私達の、本格的な留学生活がスタートします。
このハイスクールでは、卒業までの4年間を過ごし、
ハイスクール卒業後、兄は帰国し、日本の大学に進学しました。
私はニュージーランドの大学へ進学しました。
ハイスクールでは、このブログには書ききれない程、様々な体験をしました。
タラデールは、小さな田舎町で、
当時は、外国人が数える程しかおらず、外国人は珍しい存在でした。
学校では、差別的なことを言われたり、
私が通ろうとしていたドアを目の前で強く閉められたり、
物を投げつけられたりしました。
町を歩けば、知らない人に、"go home Asian!"等と叫ばれ、
通り掛かった車から物(例えば、腐った牛乳が入った牛乳パック、石)を
投げられたりすることを毎日のように経験しました。
以前書いた暴行事件があったので、
このような差別行為は、私にとって
さほど大きなショックではありませんでした。
また、差別を受け続けるうちに、差別行為をしそうな人を
服装等の見た目や行動から予測し、距離を取る等して
ある程度、自分自身の身を守ることができました。
でも、人種差別に満ち溢れた小さな田舎町では、
それを完全に回避することはできませんでした。
暴行事件や毎日のように差別を受けていたので、
私は大人になっても(32歳のときにアメリカに留学するまで)
ひとりで街を歩いているときに不安を感じたり、
車が近くを通ると心臓がドキドキしました。
差別には、差別的な発言をしたり、
暴行を加える等の分かりやすい差別行為に加え、
気が付かれにくい差別があります。
例えば、タラデールに新しいベーカリーができたとき、
私は、友達と一緒にベーカリーに行きました。
友人と私がに列に並び、友人が注文をした後、
私がドーナッツを一つ注文しようとすると、
ベーカリーの店員は、私の後ろに並んでいたおじさんに「注文は?」と聞きました。
私が店員に、「次は、私の番ですよ」と伝えても
店員は、私の方には一切視線を向けず、
私がそこにいないかのように、無視を続けました。
しばらく待っても、私はドーナッツを注文をすることができませんでした。
その様子に気が付いた友人が、私のために怒って
店員に抗議してくれましたが、店員はそれも無視していました。
私は、この状況に耐えられず、
大好きなドーナッツは買わずに(買えずに)ベーカリーを出ました。
このように、なにかをしない、気が付かれにくい差別も存在します。
私は留学するまで、人種差別を一度も経験したことがありませんでした。
私はもともと正義感が強く、学校でいじめを見かけたら注意したり、
間違ったことは間違っていると指摘するような子どもでした。
留学を始め、差別を経験し始めたばかりの頃、
私は、「差別的なことをする人達が悪い」、
「差別は、差別をする人の問題で、
差別を受ける人の問題ではない」と確信していました。
しかし、何か月も何年も人種差別を受け続けているうちに、
私の確信は崩れていきます。
いくら私が必死に闘おうとしても、人種差別は続きました。
学校内だけでなく、町を歩くだけで知らない人達に差別を受けるので、
私は、日本人(アジア人・非白人)であることを恥ずかしいと思ったり、
差別を受けないように、地元の人達のような恰好をしたり、
振舞いをするようになっていました。
例えば、ニュージーランドは、酪農や農業を主要産業とするので、
「男性は強くあるべきだ」といった
文化的期待(cultural expectation/gender role)が存在します。
だから、男性は自分が「強い」ことを周囲に示すために
穴の空いたボロボロの服を着たり、
筋トレをしてマッチョになったり、
ゴリラのように胸を張り、脚と腕をぶんぶん振りながら
「男らしさ」をアピールして歩きます。
ニュージーランドで大人気のスポーツは、ラグビーなので、
素足でマッチョでラグビーの格好をしていたら、超イケメンです。

日本のように、男性が清潔感のある小ぎれいな服を着たり、おしゃれな服を着るのは、
「女性的」ということでバカにされました
(今は文化が変わっていたり、場所によっても違うのかもしれません。
でもこれが、当時私が住んでいた町の文化でした)。
だから私も男性らしい服装をしたり、
ガリガリでもマッチョに振舞っていました。
このような私の努力によって、
人種差別がなくなることはありませんでした。
人種差別に加えて、ホームスティでは、
十分な食事を与えて貰えませんでした。
実は、留学を開始したときにお世話になった
初めのホームスティでも同じ問題を経験しました。
満足に食事を摂れない期間が長く続いたので、
私は留学開始後、体重が落ち、ガリガリに痩せてしまいました。
それまで伸び続けていた身長も
留学を始めて間もなく、14-15歳で止まってしまいました。
「お腹が空いた、もっと食べたい」とホストファミリーに伝えても
食事は改善されませんでした。
私は、朝だけ唯一おかわりすることが許されていた
コーンフレークをお腹いっぱい食べたり、
お腹が空きすぎて、トマトソース(ケチャップ)を
スプーンに乗せて食べたりして、空腹に耐えていました。

出典:https://www.shopnz.com/products/watties-tomato-sauce
食事等の問題があったので、
学校が新しいホームスティを用意してくれました。
しかし、ここでも食事の問題と、生活環境の問題がありました。
新しいホームスティでは、母屋の隣にある小さな物置を部屋に変えた、
スリープアウトが用意されました。
このスリープアウトは、隙間だらけでとても寒く、
トタンの天井には穴が空いていて、雨が降ると、雨漏りしました。
なかなか屋根を直してくれないので、
私は、天井の穴にガムを詰めて雨を防いでいました
(結局、天井が修理されることはありませんでした)。
食事も満足に食べることができず、ほぼ毎日、夕食にパイが出ました。
パイを夕食に食べるということは、ニュージーランでは珍しいことではありません。
パイは、ニュージーランドで一般的な食べ物で、主食のひとつです。
でも、パイだけを夕食に毎日食べるということは、一般的ではありません。

出典:https://www.enjoybritish-hills.com/new-zealand-food.html
このホームスティで、私は食事に関する「ある秘密」を発見してしまいます:
母屋から離れたスリープアウト(小さな物置小屋)に住んでいた私は、
ある夜、トイレを使うためにホストファミリーが暮らしていた母屋に入りました。
すると、ホストマザーと子ども達が、なぜか私を見て大慌てしていました。
この日は、いつものようにみんなで夕食のパイを食べたはずなのに、
私を除いた家族が、テーブルを囲んで、その日二回目の夕食を摂っていました。
この家族は、私に毎日パイだけ与え、
私が母屋を出て寝た後、家族だけで別の食事を摂るということを
日常的に行っていたのです。
ちなみに、ホームスティ生を受け入れると、
お金が貰えるので、その収入を目的に、
ホームスティ生を受け入れるホストファミリーがいます。
私のケースでは、私の食事費を削ることで、
日本にいる私の両親が支払うお金を収入の一部としようとしていたようです。
また、私が留学していた町では、ホームスティの受入先が少なく、
ホームスティを見つけること自体が難しいと、
学校の担当の先生が教えてくれました。
これから留学を検討していて、ホームスティをしようとしている人は、
ホームスティ先の家族の職業や、
ホームスティ生の受入れの経験の有無や受入期間等についても
事前に、教えて貰うと良いと思います。
ハリーポッターの映画の再放送で、
ハリーが階段の下の狭い部屋にいたり、
家族から仲間外れにされたりするのを見ると、
過去の体験を思い出します。
ハリーの経験は、空想上の「お話」ではなく、
虐待を日常的に受ける子ども達が、実際にいます。
ハリーポッターを書いたローリングさんも過去に、貧困をご経験されているようです。
ローリングさんは、貧困や虐待等の辛い状況に置かれている
子ども達に希望を与えるという目的でも、
ハリーポッターという素晴らしい作品を残してくれたのでしょうか。

出典:https://hellogiggles.com/lifestyle/harry-potter-closet-room/
毎日、人種差別を受け、
いつもお腹がペコペコで、
寒く、雨漏りする部屋で暮らしていた私は、
毎日生きることに必死でした。
日本にいたときには、(英語以外の)勉強がよくできましたが、
ニュージーランドで留学を始めてから、
「言葉の壁」以外の問題が、当時の私には大きすぎて、
勉強どころではなくなってしまいました。
強いストレスや貧困、虐待等が
子どもの学力に影響を及ぼすという報告がありますが、
私自身の経験と照らし合わせてみても、その通りだと思います。
いつ、どこから、誰に、突然大声で暴言を吐かれたり、
物を投げつけられたり、殴られるか分からない等という強いストレスを抱え、
眠れない程お腹が空いていると、勉強どころではなくなります。
事実、日本ではそこそこ優等生だった私は、
ハイスクールを卒業する高校三年生まで、勉強をほとんどしない、
出来の悪い生徒になってしまいました。
「子どもにやる気がなくて、子どもが勉強をしない」のではなく、
勉強がしたくてもできなかったり、
勉強に身が入りにくい、不利な環境に置かれている子ども達がいます。
また、講談社の記事にも書いたように、
勉強ができない、あるいは、やる気を起こさなくなってしまった子ども達の
「過去の経験」にも目を向ける必要があります。
だから、どうか勉強ができない子ども達や
勉強に対するやる気が低い子ども達を責めないでください。
多くの場合、問題は環境にあり
(例えば、貧困、過去の経験、指導方法がその子にあっていない等)、
子どもの「やる気」を変えるだけでは、解決ができません。
その後、別のホームスティが見つかり、
食事や生活環境の問題はなくなりました。
私に十分な食べ物と快適な部屋を与え、
私のニュージーランドでの経験を豊かにしてくれた
フレイザーとマシューズ・ファミリーには、感謝の気持ちで一杯です。
私は、ニュージーランドに留学するまで
日本で人種差別を受けたことは、一度もありませんでした。
日本人という社会的分類を与えられ、
日本では、人種差別を受けないことが当たり前でした。
また、当たり前のように、毎日、十分な食事を摂り、
暖かくて、雨漏りしない快適な環境で生活していました。
しかし、私はハイスクールでの体験を通して、
世の中には、何一つ、「当たり前のこと」なんて存在しないことを学びました。

出典:http://news.yoshimoto.co.jp/news2012/2012/08/entry33891.php
つづく