冨樫 耕平
中2で日本を離れて得たもの③:暴行事件
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中学2年生(14歳)のときに、親元を離れ、ニュージーランドへ留学しました。
そのときの経験が、今、私が子ども達のちからになりたいと思う原動力になっています。
留学中の経験について、何度かに分けて書いていきます。#中2で日本を離れて得たもの
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無事、フィジーを出た私と私の兄は、遂にニュージーランドの北島にある都市、
オークランドに到着しました。

出典:https://www.newzealand.com/jp/auckland/
私達の留学先・最終目的地は、
北島の東海岸にあるネイピアという小さな町だったので、
オークランド到着後、国内線に乗り換えをしました。
オークランドで飛行機を降りると、たくさんの日本人観光客が周りにいて、
日本語が飛び交っていました。
しかし、国内線に向かう日本人は、ほとんどおらず、
国内線ターミナルについたときには、外国語ばかりが聞こえてきました。
この頃から、「ニュージーランドに来たんだ!」というワクワク感と、
困ったことがあっても日本人がいない、
日本語が通じないんだという実感が沸いてきて、少しだけ不安になりました。
国内線の乗り継ぎまでかなり時間があったので、
私と兄は、乗り継ぎの搭乗口の近くの椅子で
座って待つことにしました。
国内線ターミナルには、見たこともないような「不思議な見た目」の
自動販売機や公衆電話が置いてありました。
私は、ジュースを買う人達が、どうやってジュースを買うのか、
そして、どんな見た目の容器に入ったジュースが出てくるのか観察していました。

出典:https://chagori.muragon.com/entry/96.html
眠気に襲われながら飛行機を待っていると、
やっとネイピア行の飛行機に乗り込むことができました。
ネイピア行の飛行機は、日本から乗ってきた飛行機よりもだいぶ小さく、
両側の翼のところにプロペラがついていました。

出典:https://traveltalk.nz/news-opinion/airline/air-nz-cuts-entry-level-domestic-airfares/
国際線で「高所恐怖症を克服した」私は、
「早く飛ばないかな」等と、出発を楽しみにしていました。
そして遂に、ネイピア行の飛行機が離陸するのですが、
ここから地獄でした。
まず出発のときに、心配になる程大きな音を立てて、プロペラが回り始めました。
離陸すると、高度をあげながら、時々、機体が大きく揺れたり、
急に高度が下がり、内臓がふわっと浮くような感じがしました。
なんとか無事に離陸した後も、
時々、ストンと、急激に高度が下がるのが分かりました。
これらはすべて、私が大嫌いな
ジェットコースターに乗っているときの感覚と似ていました!
「飛行機なんて余裕!」と思っていた自信もどこえやら、
高所恐怖症の私は、「こんな飛行機には二度と乗りたくない」、
「日本にはもう帰れないかもしれない」等と思いました。
地獄のフライトを「満喫」しながらネイピアに飛行機が到着すると、
空港でホストファミリーが待っていました。
私と兄は、同じ学校に留学しましたが、
兄弟で一緒にいると、英語が上達しないだろうという考えで、
別々のホームスティ先に滞在しました。
空港で兄と別れ、それぞれのホームスティ先に向かいました。
オークランドでは、日本人の乗客と別れ、
今度は、兄とも別れ、
「遂にここから留学が始まるんだ!」と気合が入りました。
ネイピアに到着し、留学を初めてから1か月だけ、語学学校に通いました。
語学学校は、とても綺麗で歴史のあるワイナリーがある丘の上にありました。
私のホームスティ先からは、自転車で30分程のところにありました。

出典:https://www.newzealand.com/jp/feature/top-experiences-in-hawkes-bay/

出典:https://www.nzherald.co.nz/sponsored-stories/timeless-winery-has-new-elegance/A32374DV75EABGMA57K2OKF2II/
語学学校に在学中は、とても楽しい時間を過ごしました:
語学学校の授業が終わった後や週末は、
兄のホームスティ先の家族が、プールに連れて行ってくれたり、
一緒にクリケットをしたりして遊びました。
語学学校には、優しい、「先輩の留学生」
(タイかどこかから来ていた生徒さんだったと思います)がいて、
兄と私に色々と親切に教えてくれました。
楽しい時間を過ごしていた私は、
「ニュージーランドの人達は、みんな優しくていい人達だな」と思っていました。
しかし、そんなある日、事件が起きました。
あれは確か、お正月に兄のホームスティ先に遊びに行った帰り、
私は、いつも通りルンルン気分で自転車に乗り、帰路についていました。
そんな私の横を白いバンが通り過ぎ、
そのバンの窓から見知らぬおじさんが
なにか大きな声で叫びながら、
手を振って通り過ぎていきました。
そして、そのバンは、私の少し先の公園で左折し、
叫んでいたおじさんが、バンから降りて、
こちらに向かって走ってきました。
英語が分からなかった私は、
おじさんが何と言っていたのかまったくわかりませんでした。
また、私は、ニュージーランドで楽しい時間を過ごしていたので、
「きっとあの人は、私の落とし物を拾ってくれて、
それを知らせようとしてくれているんだ」と思い、
私もバンが止まった公園の方へ左折しました。
見知らぬおじさんは、私の前に来ると、
突然、私の顔面を殴り始めました。
あまりに突然のことで、
私は、何が起こったか理解できずに、
自転車にまたがったまま、固まっていました。
少し経っても、その人は私の顔を殴るのを止めなかったので、
頭の中で「このままだと死んでしまう、殺される」と思い、
地面に大袈裟に倒れこみました。
少なくとも5回は、顔面を殴られましたが、
殴られている間は、不思議と痛みを感じませんでした。
私が自転車と共に地面に倒れこむと、
その人は走ってバンに戻り、バンは走り去っていきました。
当時、マサイ族に負けないくらい視力が良かった私は、
「せめてナンバープレートだけをメモしよう」と思い、
地面から立ち上がり、自転車に乗ってバンを数十メートル追いかけました。
でも、殴られたせいで目がかすみ、
いつもなら見えるはずのナンバーがまったく見えませんでした。
バンが遠く離れて行った後に、ふと振り返ると、
赤い車に乗った夫婦が路肩に車を止め、窓を開けてこちらを見ていました。
通報してもらおうと、手を振りながら近づいていこうとしましたが、
その車は私が手を振ると、すぐに走り去ってしまいました。
「どうしよう」と立ち止まって考えていると、
鼻血が出ていることに気が付き、
この時初めて、痛みを感じました。
血まみれでホームスティ先に帰ると、
ホストマザーが「どうしたの?」と聞いてくれました。
私は必死で、ついさっきあった出来事を伝えました。
しかし、私の英語が下手過ぎて、理解してもらえませんでした。
ホストマザーは、笑いながら、
「コウヘイのことだから、公園ではしゃぎ過ぎたんでしょ」と言い、
それがとても悲しいというか、悔しくて、
紙に必死に紙に絵を描いて、暴行を受けたことを伝えようとしました。
それでも分かってもらえず、自分の部屋に戻り、
一生懸命和英辞書を引いて、何があったかを文にしました。
このとき私が書いたのは、単語を並べただけの粗末なものでしたが、
何とか、やっと分かって貰うことができました。
ホストマザーと私が、警察に行こうと準備をしていたとき、
二階からホストファザーが、笑ながら降りてきました。
ホストマザーが状況を伝えると、
ホストファザーは、私に「二階からコウヘイが殴られるところを見ていたよ」と言い、
私を二階へ連れていきました。
二階へ行くと、ベランダに望遠鏡があり、
ホストファザーは、私に「ほら」と言って、
私が殴られた公園がある方に向いた望遠鏡を覗かせました。
それまで、私の身の回りには
そのような行動をとる人がいなかったので、
なぜ、ホストファザーは、殴られている私を助けようとしたり、
通報してくれなかったのか、
なぜ、あのとき嬉しそうに笑っていて、
怪我をして警察に行こうとしていた私に
わざわざ望遠鏡を覗かせたのか、理解できませんでした。

結局、私はホストマザーと警察に行くことができました。
心配した兄と兄のホストファミリーも警察署に駆けつけてくれました。
当時の出来事は、暴行事件として新聞に載りました。
でも、結局、犯人は見つかりませんでした。
その後、語学学校から離れた学校に通い始めたタイミングで、
私は、別のホームスティ先に移りました。
ニュージーランドに到着後、
「ニュージーランド人はみんな優しい」と思い込んでいた私は、
このようにして、一か月程の間に様々な「現実」を知りました。
つづく